青空に、さつさつと飛び交うボール。
わあーと上がる歓声!若さと健康と、黒髪と真白いシャツの奏でる美の躍動だ。
卒業記念学級対抗バレー試合も後数日にせまった。学校の放課後の校庭の風景だ。
まあA組みの主将Nさんの「ハーイ、行きますよ!」の掛け声も勇ましく打ち出すサーブの物凄い事。
しばし茫然と我々C組みの面々は敵の威力に息を呑む。万年ビリッケツの汚名を何とかして返上せんものと、
これが最後に学窓を去る乙女達よ、さあさあ練習!練習!。白鉢巻をキリっと締め直す。
だが何としても好いコーチが居ない。それに引き返へA組みの連中は何と羨ましい事よ。
毎日毎日K先生とまるで友達の様になれなれしく口を聞いて専門の指導を受けている。
二十四才、眉目秀麗、白晢の美青年。すらりとした長身を紺の背広につつんで、初めて私達の前に現われたのは、
去年の四月。校長先生に紹介された其の名はK先生、体育の専門教師である。
どう云うわけかすぐA組みとB組みが早速自分達の専属の様にK先生を一人占めにしてしまった。
尤も担任の先生がどっちもおばあちゃんであったからなのでろう。
それに引き返へ私達のC組みのS先生は、背こそあまり高くなかったが、女には珍しく眉の太い目元のぱっちりした中々の美人であった。其の太い眉は何時もきれいに剃刀が当てられ、ついぞむだ毛の生えているのを見た事がなかった。それがとても清潔な印象を与えていた。全校一年も若かったので、体育も球技も何も人手を借りなくても自分で真っ先立ってハリキッテ教えられる。それが返って仇となり私達は、K先生に近ずくチャンスさへなかった。それに私は体育は不得手だし、運動神経が鈍い。第一ボールが恐くて仕方が無い。だから体育の時間でボールを使う時は隅っこの方へ逃げて行き日向ぼっこをして、御隠居組と云う有難くない名前を頂戴していた。
だが学課の方はいささか自信があった。何時もクラスの委員長か副委員長に選ばれていた。
それに先生にも信頼されていた。Tさんは人を統率する力があるからとか何とかおだてられ、先生の出張して留守の時は、私が教壇に立って先生気取りで勉強していた。
帰ってくると放課後誰もいない所で「どうも留守中ご苦労さん」とおみやげなどくれたものである。
だからS先生は、なんでもかんでも私に任せたがる。体育はから駄目でも、自分の手の放せない用事がある時は、「Tさん今日残って選手の監督していてくれない」とくる。
弱将の下に勇卒なしの我がチームが今日も今日とて練習に励んでいると、少し離れた所でK先生がじっとこちらを見ていた。私は胸がどきどきと高鳴ってきた。わざと大きな声で選手にはっぱを掛けたりしていた。球がそちらの方へ流れていくと、拾って投げ返してくれた。
「僕今日は暇だから君達と一緒にやろうか」と思いがけない言葉。私は嬉しくて天にも昇る心地。
「先生私達とても下手なんです、よろしくお願いします」と。選手連中の嬉しそうな恥かしそうな顔・・・・。
先生と親しく接したのはたったこれが一回だけ。
昭和十四年、戦雲はそろそろ拡大の様相を見せ、青年たちは櫛の歯を引く様に戦場へと送り出されて行く。
年の若さのせいか、はたまた、体育の教師と云う立場からか、私の学校では真っ先にK先生に赤紙が来た。
後編につづく。