亡き母の文章4 「幼き日の下町の思い出」 後編 高橋令子
- 2013.09.28 Saturday
- 11:25
小学三年生で、私は終業式にクラス代表で校長先生から御免状をもらう、総代となった。父母達も喜んでくれ、始めて姉と二人、長い袂の着物とエビ茶の袴を作ってくれた。家中の女達が総動員で、あっちこっちと安い店を探し回り、田中町のいろは会通りの呉服屋で錦紗なんてとてもとても、秩父銘仙の紫地に矢羽模様の表地を三反買って、羽織と着物、一揃えを二人分仕立てた。私はそれが子供にしてはいかにも、地味な色合いなので気に入らなかった。むしろ長襦袢に仕立てたメリンスの赤い花模様の方が好くて、其れを下に着て見えなくなるのがいやだった。よく裾をまくってあるいては、母から何で尻ぱしょりなんてしているのよ、みっともないからやめなさいなんて小言を云われていた。其の着物は戦時中モンペと防空頭巾になり、最近迄何らかの形で我が家に残っていた。
母は非常にお針りの腕は達者の様であった。娘の頃、田舎から出て来て三越の裁縫部に入りみっちり仕込まれ、どんな物を出されてもびくともしないだけの腕は持っていた。最後に仙台平の袴を縫えれば一人前なのよ、とよく云っていた。
私達が小学校へ上がる前迄はよく和服を着せられていた。夏はゆかた、合着はフランネルかセル、冬は木綿の合せ着に羽織、よそゆきは、メリンスの花模様の布地で仕立て、三尺と云うへこ帯をしめていた。何時もきちんと張り板でのり付けされ、仕立直し、ずるずるしただらしないものは着せていなかった。近所のおかみさん達も、お母さんは腕が立つからいいわねえと誉めていた。
いよいよ進学の時期になった。其の頃は六年生で旧制高等女学校への受験であった。私は成績も好かったので父母は教師にしたかったらしく、府立の女学校を受験する事を許してくれた。私達下町っ子の憧れは、沢村お貞いちゃんと同じ府立第一高女、七軒町にあり毎年一人入れるかどうかの難関であった。課外授業もやり、わざわざ朝日新聞社の大ホール迄模擬テストを受けに学校から、五、六人選抜されて、タクシーに乗り出掛けた。其の頃の受験科目は、たしか、国、算、史、理、地で、国、算、はそれぞれ一枚の用紙、史、理、地、三科目で一枚の用紙、合計三枚で、三百点満点で、二百五十点とると、新聞社の方から名前と学校名の入ったプリントが送られてくるのが例であった。私の返されたテストの採点は二百四十点、ちょっと力不足の様なので担任が市立の忍ヶ岡高女はどうかと薦めてくれた。
六年生になった十二月、父が突然の心臓発作で亡くなった。
貯へとてない職人風情ではとても進学どころではなくなってしまった。私は諦めて同じ区立の今戸高等小学校へ行き、二年の卒業後、昭和十四年逓信省電話局青山局への三ヶ月の見習い講習を経て、神田分局へ配属された。七年目、役職は主事補となり、昭和二十年三月十日未明、東京下町大空襲の日、夜勤勤務となり夕方四時から交換台に付き、空襲警報と共に、サーチライトに映し出された大鷲の様な彼のB二十九の蹂躙に東京は何時間も晒されるのであった。
夜明けと共に同僚の女の子と二人屋上に上がり、彼の日本の滅亡を予知する様な金環食のコロナさながらの災の大饗宴を目のあたりにするのであった。
二人は手を握り締め言葉もなく、唯々涙するばかり。
これが私の二十才の早春賦である。
完
母は非常にお針りの腕は達者の様であった。娘の頃、田舎から出て来て三越の裁縫部に入りみっちり仕込まれ、どんな物を出されてもびくともしないだけの腕は持っていた。最後に仙台平の袴を縫えれば一人前なのよ、とよく云っていた。
私達が小学校へ上がる前迄はよく和服を着せられていた。夏はゆかた、合着はフランネルかセル、冬は木綿の合せ着に羽織、よそゆきは、メリンスの花模様の布地で仕立て、三尺と云うへこ帯をしめていた。何時もきちんと張り板でのり付けされ、仕立直し、ずるずるしただらしないものは着せていなかった。近所のおかみさん達も、お母さんは腕が立つからいいわねえと誉めていた。
いよいよ進学の時期になった。其の頃は六年生で旧制高等女学校への受験であった。私は成績も好かったので父母は教師にしたかったらしく、府立の女学校を受験する事を許してくれた。私達下町っ子の憧れは、沢村お貞いちゃんと同じ府立第一高女、七軒町にあり毎年一人入れるかどうかの難関であった。課外授業もやり、わざわざ朝日新聞社の大ホール迄模擬テストを受けに学校から、五、六人選抜されて、タクシーに乗り出掛けた。其の頃の受験科目は、たしか、国、算、史、理、地で、国、算、はそれぞれ一枚の用紙、史、理、地、三科目で一枚の用紙、合計三枚で、三百点満点で、二百五十点とると、新聞社の方から名前と学校名の入ったプリントが送られてくるのが例であった。私の返されたテストの採点は二百四十点、ちょっと力不足の様なので担任が市立の忍ヶ岡高女はどうかと薦めてくれた。
六年生になった十二月、父が突然の心臓発作で亡くなった。
貯へとてない職人風情ではとても進学どころではなくなってしまった。私は諦めて同じ区立の今戸高等小学校へ行き、二年の卒業後、昭和十四年逓信省電話局青山局への三ヶ月の見習い講習を経て、神田分局へ配属された。七年目、役職は主事補となり、昭和二十年三月十日未明、東京下町大空襲の日、夜勤勤務となり夕方四時から交換台に付き、空襲警報と共に、サーチライトに映し出された大鷲の様な彼のB二十九の蹂躙に東京は何時間も晒されるのであった。
夜明けと共に同僚の女の子と二人屋上に上がり、彼の日本の滅亡を予知する様な金環食のコロナさながらの災の大饗宴を目のあたりにするのであった。
二人は手を握り締め言葉もなく、唯々涙するばかり。
これが私の二十才の早春賦である。
完