亡き母の文章5 「婆さんの社会勉強」 後編 高橋令子
- 2013.10.20 Sunday
- 13:17
エレベータを降り4号室を探した。入り口にどうぞ自由にお入り下さいとの札が掛かっている。中に入ると十帖位の広さであろうか、女の事務員さんが二人机に向かって居た。手前にソファーが二つあり、もう一人先に応募者らしい若い女の人が掛けて居た。間もなく其の人は名前を呼ばれて奥の部屋に入った。背のすらりとした顔の小さい年の頃は十八、九中々の美人である。私はお茶を持って来てくれた事務員さんに、「彼の方も応募の人ですかと聞くと、そうですと云った。あれだけの顔とスタイルだと普通のOLなんかじゃ満足出来ないだろうと思った。五分位たつと又一人応募者らしき人が入って来た。背の高い色白の中年の女の人である。私は早速あなたも応募の方ですかと問いかけると、笑い乍ら「ええ娘がお母さんやめなさいって云ってるんですけど、体も健康だし思い切って来て見たんですよ。私六十になるんですよ」と。おやおやとても六十には見えない若さだわ。これは強敵だわい。でも婆さんには婆さんの役所もあるんだろうと思った。次は私の番だ。
部屋の中に三十位の長い髪にパーマをかけた男の人が椅子にかけていた。簡単な質問があった。此処迄来るのにどの位い時間がかかったかとか家族は何人とかである。ちっとも気が付かなかったが、其の答えている私の姿と声が小型のビデオカメラに映っているではないか。まあ何と老けている事。これじゃ六十五才年齢其のものだわ。老醜むき出しだわ。これじゃ駄目だわ。彼は此のビデオを後で皆で見て検討して採用不採用を決めますから、今日お帰りになって、夕方にここに電話して下さいと名刺と事務所名の入った細長い音楽会のチケットの様なものをくれた。そして彼は棚の上からアルバムを持って来て、もし採用が決りますと此の様に写真を撮りまして、各テレビ局、映画会社、雑誌社に配布致しまして、此の方と指名があれば其の人を差し向け、又五十代の女性何名、六十代何名と云う注文もあるとの事。大抵東京近郊ですからそう交通の時間はかかりません。二、三日前に連絡致しますから、其の時出演できればよし、都合が悪ければ無理して出なくてもよいのですとの事。何だか随分いいかげんなと云う感じがしないでもないけど、どうせ御指名なんてありっこないもの。唯望みがあるのは六十代の女性何名と云う事だけだわ。
事務所を出ると未だ残暑のきびしい街並みだった。何だかがっくりと疲れてしまった。
一軒の喫茶店に入り、ミックスサンドとアイスコーヒーを注文、ゆっくり時間をかけて食べる。何時も思う事だが、私はタバコは嫌いだけれど喫茶店に入った時だけ、コーヒーの後タバコをくゆらし煙をふうっとはいている女の人を見ると羨ましくなる。きっとリラックスしているんだろうなあと。
駅を下り、近くのスーパーに寄って夕食の買い物をして、何時ものスタイル、ビニール袋をぶら下げて家に着いたのは四時を少し廻っていた。
顔を洗いクーラーを付けほっと一息入れ乍ら、さっき貰った名刺と音楽会のチケットの様なものをバックの中から取り出して目を通した。やや何だこりゃ、トレーニングカリキュラムと題してダンス、ソング、ポーズ、表現力、演技力、などなど。子供は月、水、金、大人は火、木、費用は入所金三万円、プロマイド五万五千円、レッスン料一万五千円、其の他登録手数料五千円、〆て十万五千円也。ああやられた、やっぱりこんな婆さんをタレントとして使い、お金を払ってくれる程世の中は甘くないわいと納得。ほおっておこうかと思ったが、相手がどう出るかと思い六時半に電話をかけて見た。
「もしもしM事務所ですか。今日お伺いした川越の高橋でございますが。」
「ああ高橋さんですね、今日はお疲れ様でした。(人扱いに慣れているわ)協議の結果、高橋さんは大変お元気なので、こを云う仕事は元気が何よりなので採用させて戴きます。」
「でも私、レッスン受けて迄やる気は無いんですけど」
「いいえ、レッスンは現場での礼儀や人に迷惑をかけない様にする為のお行儀で主に子供さんにやってもらっており、お年寄りの方は受けなくても結構です。」
「では、登録料の五千円だけですか。」
「いえいえ、プロマイド作成の五万五千円は必要です。」
ええ、彼の事務所で見た写真どう見たって普通のサービス判のカラー写真じゃないか、とんでもない、孫の七五三の台紙付きの立派なやつだって、三枚一組二万円だったのに。
「お金をかけて迄やる気は無いんです。」
「ああそうですか、ガチャン。」と切れた。何の事はない五万五千円で彼の写真を撮るのが目的だったのだ。でも考えて見れば五万や六万のお金は良心的の方なのかなあ。何しろ労働大臣許可と書いてあったもの。昔何とかと云う女性歌手が売り出す為に実家の田地田畑を売り、二億円もの大金をプロダクションの社長に取られ、裁判沙汰になった事件があったっけ。
まあいいや、交通費千三百八十円、お茶代八百円、セット代二千八百円、〆て四千九百八十円也で、久しぶりで渋谷の風に当たり、数十年前のOLに帰った様な気分を味わわせてもらったし、いい社会勉強にもなったし、だけど同性として娘と嫁には絶対に内緒にしとこ。何故って彼女達は、私が生まれながらに婆さんと思っているふしがあるから・・・・。
侮るんじゃないよ、私だって情熱の溢れる十八の娘の時だってあったんだから、と時々心の中でつぶやいている私。
又お母さん何やってんのよって云われたくないもん。
完
部屋の中に三十位の長い髪にパーマをかけた男の人が椅子にかけていた。簡単な質問があった。此処迄来るのにどの位い時間がかかったかとか家族は何人とかである。ちっとも気が付かなかったが、其の答えている私の姿と声が小型のビデオカメラに映っているではないか。まあ何と老けている事。これじゃ六十五才年齢其のものだわ。老醜むき出しだわ。これじゃ駄目だわ。彼は此のビデオを後で皆で見て検討して採用不採用を決めますから、今日お帰りになって、夕方にここに電話して下さいと名刺と事務所名の入った細長い音楽会のチケットの様なものをくれた。そして彼は棚の上からアルバムを持って来て、もし採用が決りますと此の様に写真を撮りまして、各テレビ局、映画会社、雑誌社に配布致しまして、此の方と指名があれば其の人を差し向け、又五十代の女性何名、六十代何名と云う注文もあるとの事。大抵東京近郊ですからそう交通の時間はかかりません。二、三日前に連絡致しますから、其の時出演できればよし、都合が悪ければ無理して出なくてもよいのですとの事。何だか随分いいかげんなと云う感じがしないでもないけど、どうせ御指名なんてありっこないもの。唯望みがあるのは六十代の女性何名と云う事だけだわ。
事務所を出ると未だ残暑のきびしい街並みだった。何だかがっくりと疲れてしまった。
一軒の喫茶店に入り、ミックスサンドとアイスコーヒーを注文、ゆっくり時間をかけて食べる。何時も思う事だが、私はタバコは嫌いだけれど喫茶店に入った時だけ、コーヒーの後タバコをくゆらし煙をふうっとはいている女の人を見ると羨ましくなる。きっとリラックスしているんだろうなあと。
駅を下り、近くのスーパーに寄って夕食の買い物をして、何時ものスタイル、ビニール袋をぶら下げて家に着いたのは四時を少し廻っていた。
顔を洗いクーラーを付けほっと一息入れ乍ら、さっき貰った名刺と音楽会のチケットの様なものをバックの中から取り出して目を通した。やや何だこりゃ、トレーニングカリキュラムと題してダンス、ソング、ポーズ、表現力、演技力、などなど。子供は月、水、金、大人は火、木、費用は入所金三万円、プロマイド五万五千円、レッスン料一万五千円、其の他登録手数料五千円、〆て十万五千円也。ああやられた、やっぱりこんな婆さんをタレントとして使い、お金を払ってくれる程世の中は甘くないわいと納得。ほおっておこうかと思ったが、相手がどう出るかと思い六時半に電話をかけて見た。
「もしもしM事務所ですか。今日お伺いした川越の高橋でございますが。」
「ああ高橋さんですね、今日はお疲れ様でした。(人扱いに慣れているわ)協議の結果、高橋さんは大変お元気なので、こを云う仕事は元気が何よりなので採用させて戴きます。」
「でも私、レッスン受けて迄やる気は無いんですけど」
「いいえ、レッスンは現場での礼儀や人に迷惑をかけない様にする為のお行儀で主に子供さんにやってもらっており、お年寄りの方は受けなくても結構です。」
「では、登録料の五千円だけですか。」
「いえいえ、プロマイド作成の五万五千円は必要です。」
ええ、彼の事務所で見た写真どう見たって普通のサービス判のカラー写真じゃないか、とんでもない、孫の七五三の台紙付きの立派なやつだって、三枚一組二万円だったのに。
「お金をかけて迄やる気は無いんです。」
「ああそうですか、ガチャン。」と切れた。何の事はない五万五千円で彼の写真を撮るのが目的だったのだ。でも考えて見れば五万や六万のお金は良心的の方なのかなあ。何しろ労働大臣許可と書いてあったもの。昔何とかと云う女性歌手が売り出す為に実家の田地田畑を売り、二億円もの大金をプロダクションの社長に取られ、裁判沙汰になった事件があったっけ。
まあいいや、交通費千三百八十円、お茶代八百円、セット代二千八百円、〆て四千九百八十円也で、久しぶりで渋谷の風に当たり、数十年前のOLに帰った様な気分を味わわせてもらったし、いい社会勉強にもなったし、だけど同性として娘と嫁には絶対に内緒にしとこ。何故って彼女達は、私が生まれながらに婆さんと思っているふしがあるから・・・・。
侮るんじゃないよ、私だって情熱の溢れる十八の娘の時だってあったんだから、と時々心の中でつぶやいている私。
又お母さん何やってんのよって云われたくないもん。
完